英国で小児心臓外科医What Is It Like Being a Cardiac Surgeon in the UK?
奈良県立医科大学 先天性心疾患センターNara Medical University, Congenital Heart Disease Center ◇ Nara, Japan
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私がロンドンでpostgraduate course(心臓形態学)を履修したのが1993~95年(臨床は全くせず,学位取得は1997年),Royal Brompton HospitalでConsultant Surgeonとして活動したのが2004~16年です.この間にも英国の社会では様々な事柄が起き,状況は大きく変化しました.感じたことを超ウルトラショートの積み上げでお伝えします.
なんと言っても,英語圏です.論文を書くにもnative checkが楽です.ただ,米語とは発音も綴りも語彙も異なる場合があります.例えば,‘Do you have ...’でなく,英国では‘Have you got ...’です.因みに,地球上には学校で米語を教える国(日本など)よりも英国英語を教える国の数がはるかに多いです.また,ヨーロッパゆえ,仏語や伊語などの特徴に触れる機会も多く,変化に富みます.
ロンドンには実に多くの国の人々が集います.いろいろな言葉,風習,考え方が混在し,お互いを認め合おうとします(少なくとも表面上は).英国人の日本評価は,好意的なものが多いと感じます.明治時代には,政治・行政制度や交通インフラなど多くの基幹システムを英国に学びました.立憲君主制の島国という類似性も親近感の由縁かもしれません.もっとも,英国以外の国の人も大勢おり,そのなかには日本人に対して敵対心を抱く人達もいます.そこまででなくとも,感謝や他人尊重の習慣がない文化もあるわけで,多国籍文化の一断面を垣間見ます.
1990年代前半,40%という高い致死率のまま動脈スイッチ手術を続け,社会を揺るがしました.当初,内部告発は揉み消され,医療安全に対する信頼が失墜しました.これを契機に,主要外科医とそのチームの診療をモニターする機構が構築され,医師の裁量範囲は相当に制限されることになりました.
年度ごとに心臓手術の成績は中央集計され,公開されます.提出されたデータは詳細に監査を受けます.標準を逸脱した不良成績では,当該外科医は操業停止となり改善のための再講習が必要です.普通,その前の段階で,各施設が内部検討・対処します.
ヨーロッパでは児童保護の意識がとても高く,医療現場のみならず幅広い領域で虐待防止の講習受講が繰り返されます.子供の体調が悪くなって,親が救急施設へ連れて行く場合でも,入念に虐待の有無が審査されるほどで,日本人の感覚からは驚きます.そういう背景があり,小児の心臓手術は専門性を認められたConsultantのみ執刀が許されます.これは次世代育成の面からはジレンマです.
心臓外科医一人あたり年間200~250例の手術施行で成績が安定すると信じられています.また,緊急当番を含めた勤務時間の上限から,一施設あたり4人以上のConsultantが必要と考えられます.したがって,英国での年間総症例数から全土で7施設が適切という勘定で,施設の集約化が進んでいます.人工心肺その他の高額機材や麻酔科・ICUチームなどを効率的に運用する点も重要です.勤務時間遵守の意識は強く,研修中の医師や看護師・パラメディカルなどの連続勤務制限も厳格です.
英国の国民保健診療(NHS)は全額国負担ですが,それ以外に自費診療もあります(併用はできない).中近東などからの患者でその国の政府負担で支払われる場合も含みます.執刀契約はConsultantのみ,外国籍外科医が助手として収入を得る機会は少ないです.
英国は教育学先進国を自負しています.最近の日本の医学教育も多くを学んでいます.英国では言葉で表わし伝えることが原則で,日本の「見て盗む」伝授の方式は認められません.また,最低限の安全性を担保できる標準的な医師を育てることが主眼であり,卓越した医師の育成を推進しているわけではありません.自分が何を修得したいのか,どういうレベルを目指すのか,熟慮する必要があります.
被雇用者として,定期的に受講する義務のある講習がいくつもあります.児童虐待防止のほか,差別やハラスメント,廃棄物処理,消火の基礎など,医学的内容でないものも多くあります.さらに教育・指導に関する専門講習会も受けねばなりません.これらを全てクリアすれば医師資格を維持できます.
医師資格は,General Medical Council(GMC)にregistrationすることから始まります(日本の医籍登録に相当).英国の大学卒業でなければ,語学試験とPLABと呼ばれる技能テストを課されるのが一般的です(EU国民は免除されていました).2010年頃からは,5年ごとの更新が必要なlicence制度が加わりました.これには,GMCが定型化した様式に則って,毎年のappraisal(日本でいう勤務評定)が必要です.上司のみならず,360度評価(同僚や研修医,看護師,技師,事務職員,患者さんなど)が必須です.手術実績や学術業績,講習会受講の記録など,客観的データも必要です.これを,ポートフォリオ管理します.日本では同等の機序が十分でなく,英国でのlicence取得の障壁となります.
2007年6月にグラスゴー空港で起きたテロ事件に関連した逮捕者のうち,2名がアジア・中近東の医師でした.このため,EU以外からの外国人医師の採用を全面停止する時期が続きました.受け入れは再開しましたが,身元確認の手順は厳格化され,認可されない場合もあります.
雇用主は,定期的に(1~2年に1度)被雇用者である医師の犯罪有無証明を得なければなりせん.現在はDisclosure and Barring Serviceが情報を提供します(DBS check).ジェームズ・ボンドでお馴染みの情報機関さながらです.日本での医師法違反の有無等に関しては,厚労省が英語で証明書を発行します.
GMC登録にはIELTSの英語検定証明が必要です.Reading, Writing, Listening, Speakingの4技能全て7点以上(9点満点),平均7.5点以上が条件です.日本人にはまずまず高い目標です.
臨床医としての医師資格取得が難しい場合,研究職を求めます.一番確かなのは,postgraduate courseに留学することです.授業料はとても高額です.学位取得には,有名journalに採用された論文1編では到底足らず,医学博士だと1インチ厚以上の大論文を提出,と若干の誇張を込めて言われます.その代わり,学位には相当の権威を認めます.
2016年からのEU離脱手続きがようやく完了しました.関税や制限のない市場・金融システム,労働力の自由な往来,という利点は消える一方,EUの窮屈な制約と財政的負担から抜け出しました.もともと,通貨はポンドのまま,島国ゆえの独自の国境管理で,標準時間も大陸とは1時間異なります.どこかしら,完全にはEUに溶け込まない素振りがありました.今後,コロナ感染,ワクチンのことで英国とEUのいがみ合いは続きそうです.
英国にとってEUよりも大切な外交関係は英連邦です.いわゆる大英帝国時代の植民地を中心とした54ヵ国の同盟です.エリザベス女王がその長で,女王は英国に加え,カナダ,オーストラリア,ジャマイカなど15国の王でもあります.英連邦にはこの他,インド,パキスタン,マレーシア,南アフリカ,ケニア,タンザニアなどがあります.これまでは規定上,EU労働者を優先して受け入れました.今後は英連邦が最優先,特別な同盟関係のアメリカ(今後もその関係が続くならば)が2番目に上がるでしょう.そして,地理的に近いEUが3番目.日本はというと,まだその下の順位で,ロシアや中国,中近東の国々と同列かもしれません.英国がTPP加盟を認められ(現在のTPP 11カ国中6カ国は英連邦),新日英同盟が進めば,日本からの労働力移動はこれまでより容易になるかもしれません.
もっとも,現在の感染症非常事態下では,留学・研修目的での渡航は大きく制限されます.また,平和な日本にいると実感しづらいですが,戦争と隣り合わせの事実は無視できません.私が治療して元気になった患者さんの中にもイラクの爆弾テロで亡くなった方がいます.英国は中近東に派兵しており現在も戦争当事国です.イスラム過激派によるテロは,英国本土でいつ起こってもおかしくない状況です.これに加えて,1990年代前半にはアイルランド問題でIRAの騒動がありました.2000年までには収まりましたが,EU離脱でアイルランド問題は再び不安定になりかねません.さらに,つい先頃,英国が核兵器保有を増やし発射母体となる潜水艦を増築する方針とニュースに報じられました.文化・歴史の違う国へ出向く限り,戦争・身の安全から目を背けるわけにはいきません.
以上より,1)多様性に根ざした社会機構を体感できる,2)学識・教養が深まる,3)英国医師資格の取得は簡単でない,4)外科研修として自身が執刀することはままならない,5)身の安全に関して侮ってはいけない,と要約されます.自身が求めるものを明確にし,役に立つ部分を上手に利用することが肝要です.
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