令和における次世代を担う医師の涵養Fostering the Next Generation of Doctors in the Reiwa Era
静岡県立こども病院循環器科Department of Pediatric Cardiology, Shizuoka Children's Hospital ◇ Shizuoka, Japan
© 2019 特定非営利活動法人日本小児循環器学会© 2019 Japanese Society of Pediatric Cardiology and Cardiac Surgery
年号が令和となり,日本社会が大きく変化したわけでもないが,なんとなく新しい時代の到来を期待することができるのは,元号制度を持つ国のよい点であるように感じられる.私は平成4年(1992年)から医師として働いていることから,平成とともにこれまでのキャリアを歩んできたことになる.
学生時代の西暦1989年に昭和天皇の崩御とともに昭和が1月7日で突然終了し,1月8日から平成元年が始まった.そして同年の11月9日にベルリンの壁が崩壊し,当時は永遠に変わらないと考えられた鉄壁の東西冷戦が劇的に崩れ去った.このように世界が劇的に変化するのを当時はインターネットではなくテレビを通して見ていた.平成4年に医師として社会にでる際には,いよいよ社会の一員として,このような歴史の一部に参加するとの淡い高揚感も持っていた.しかし,その淡い高揚感は職場である小児科病棟に出て1週間もたたないうちに跡形もなく消し飛んだ.
私が医師になった当時は現在のスーパーローテートのような臨床研修制度はなく,ほとんどの学生が単一診療科を選択し,卒業と同時に希望の大学の医局へ所属するのが通例であった.私は出身校とは別の郷里の大学の小児科医局を選択し,小児科医としての道を歩み始めた.大学での研修が過酷であることは噂には聞いていたことから,ある程度の覚悟をしていたつもりであったが,その過酷さは想像以上であった.平日は朝の7時前には病棟へ行き,8時までに自分の担当患児の採血を全て終わらせる必要があった.そうしないと午前中に検査結果が出なかったからである.検査結果がわからないことには血液腫瘍疾患の患児などは,その日の化学療法の治療計画を立てることができなかった.また,治療方針の相談相手となる上級医もバイト等で院外に出ることが多かったことから,相談できる時間を逃すことは治療の指示ができなくなることを意味した.右も左もわからない当時の私は必死であった.当時はまだ紙カルテで,紙で打ち出された検査結果を所定の場所に糊で貼り付けるのも担当医の仕事であった.経過の長い患児のカルテはアコーディオンみたいに検査結果の用紙で膨れ上がっていた.そしてこのアコーディオンのようなカルテを数冊抱えて上級医の後を追いかけ回していた.
当然のように平日は毎日午前様で,病棟で午前1~2時まで過ごす毎日であった.睡眠時間は平均3時間程度であり,居眠り運転で危うく事故を起こしそうになったことが何度もあった.平成4年の同期入局者は私の他に3名いたが,夏頃になるとあまりの仕事の過酷さに我々研修医の不満は一気に爆発しそうになった.しかし,医局の中を見回しても,誰かが楽をしているために研修医が激務にさらされているのではなく,上級医達もバイトや自身の医学研究などで多忙を極めており,医局に所属する全ての医師が激務をこなしていた.この様子はまるで,膨張した気体の内部圧力でその構造を支えている気球(建築工学では空気膜構造と呼ぶらしい)のようであり,窮屈な場所でもがき苦しんでいるような閉塞感を常に抱いていた.全ての医局員が膨張した状態で頑張り続けないと維持できない気球のようなシステムが長続きするとは思えない.臨床と研究の実働部隊として活躍すべき助教や医員クラスの医師達の数が少なすぎることと,彼らが薄給のために多くの時間を大学外でのバイトに費やさないといけないことが,大学のシステムが“気球化”する大きな原因の一つであり,そのしわ寄せが最も弱い立場の研修医に来ていた.
理不尽に思いつつも,同期の研修医や先輩医師からの励ましを受けて,なんとか1年半の研修を終了することができた.特に,循環器の先輩医師や,当時の病棟医長の先生には大変お世話になった.私が小児循環器を選択したのも,小児循環器グループの先輩医師達が多忙にもかかわらず熱心に指導して下さったことと,循環器で扱う血圧,圧・容積ループや血流の流体解析などが私の好きな物理学に通じるものがあったからである.
平成16年に新医師臨床研修制度が導入され,このような過酷な初期研修の制度が改善された.厚労省が掲げる臨床研修の基本目標の一つに研修期間内に“医師としての人格を涵養(かんよう)する”ことが掲げられている.涵養という言葉は日常生活ではほとんど使用しないが,「水がしみこむように自然に少しずつ教え養う」という意味らしい.勿論,一人前の医師を育てるには時間がかかる.それは,医師の仕事には知識だけでなく,経験が非常にものをいうからである.また,人と接する仕事であるが故に人間性も求められる.私が研修医をしてきた時代のように,医師としての研修よりも病棟を支える労働力を即席で作り上げることに主眼を置いた研修では,その内容がかなり偏ってしまっているのは否めない.私はその後に平成14年からトロント小児病院へ3年間の留学をさせて頂いた.1年目はリサーチフェローであったが,2年目からはクリニカルフェローとして勤務した.この3年間は非常に濃密な時間で,振り返って見ても小児循環器医としての実力が最も伸びた期間であった.また,世界の各地から来るフェロー達と知り合いになれたことは,人生観,または個人の文化的価値観を変えるような出来事でもあった.メンターの先生方に直接ご指導頂いたことも実力が伸びた大きな要因であったことは間違いないが,異質の文化圏の中で多様な背景を持つフェローと交わったことが何か化学反応のようなものを起こしたとも考えている.勿論,日本での臨床業務にも自分を育てる要素は沢山あり,要はそれを自分で見つけることができるかどうかである.まさに,医師を育てるということは涵養であり,それには様々な環境が必要であり,長い時間がかかる.医療は重要な社会インフラの一要素であり,その中核を担う医師を育てることについて社会全体が理解し協力して頂く必要がある.医師は即席では作ることができないし,良い医師が地域社会に沢山いることができれば,それは社会的財産でもある.
また,平成30年7月6日に『働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律』が公布され,医師の労務管理についても大きな変革が起きようとしている.平成31年4月からは既に医師を除く病院職員に対しては,時間外労働の上限規則が導入されている.医師への導入には猶予期間が設けられており,施行は令和5年4月からである.この猶予期間内に各病院は対応を準備することが求められている.アルバイトの時間も労働時間に通算されることが求められており,また,時間外勤務には最大1.6倍の割り増し賃金を設定することが規定されている.若い勤務医の環境が整備されていくことは,継続して高度の医療を提供していくためには必須であり,また,海外に発信するための研究ができる環境を作る面でも重要である.
私の研修医時代の話を令和の時代の若い先生方は,平成初期の昔話として読まれるのか,または今も何も変わっていないと感じられるのか.大学勤務を離れて20年以上になる私にはわからないが,状況は必ず変えられると思っている.
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